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星を追う子ども

 新海誠の4年ぶりの新作映画は、じつに彼らしい映画だった。
 そして、この映画は、時間をかけてじんわりと評価されていく佳作だと感じた。 

  o0800045010850252695.jpg  (C)Makoto Shinkai/CMMMY

 人は、喪失とどう向き合えばいいのか――

 この映画のテーマを一言で語るなら、そういうことになる。
 それは、監督であり脚本も手がけた新海誠が、過去の映画でも描き続けてきたことだ。ただし、新海誠自身もまだその答えを見つけていないのかもしれない。なぜなら、この映画においても、それに対するいくつかの選択肢は示されたが、明確にこれという解答は提示されていないからだ。それが作品に解釈の幅と深みを持たせた半面、明快さや判りやすさを犠牲にしてしまっていることは否めない。
 この映画の物語は、複雑な形式と構造を持っている。それを読み解くことができなければ、理解不能なつまらない映画だと思えてしまうだろう。その作業は、一筋縄ではいかないが、鍵はいくつかある。
 ひとつ目の鍵は、映画の紹介に使われている文章だ。『喪失をまだそれと分からぬ少女、居場所を求める異国の少年、喪失を決して受け入れない大人。それぞれの想いを胸に、世界の深部への旅に出る。それは、さよならを知るための旅』。
 この文章の通りだとすると、物語の基本的な構造は、主人公の少女アスナのジュブナイルだと考えて間違いないだろう。ほのかな想いを寄せた少年シュンとの死別という喪失を抱えたアスナが、シュンとの再会を求めて地底世界アガルタへ旅立ち、さまざまな出来事と出会いや別れを経験して、最後はシュンやアガルタと決別して地上に帰還する。この物語は、アスナのジュブナイルを描くに足るファンタジーの様式を備えている。
 ところが、この映画が分かりにくいのは、アスナの喪失と成長というテーマがシンプルに描かれていない点にある。なんとなれば、アスナはジュブナイルに必須な喪失を、映画の最後になってようやく実感するのである。だから、ほんとうのジュブナイルは、アスナがアガルタから地上に帰還した後、つまり映画では描かれていないところでなされているのだ。映画のラストに、卒業式に向かうアスナの少し成長した姿が瞥見されるので、それとわかる程度である。
 他の主要な人物、たとえばモリサキやシンなどの役割も、アスナを支えたり導いたりするといった類型的なものではない。むしろ、三人三様の悩みや想いが交錯したりすれ違ったりしながら、各々が喪失とどう向かい合っているかということだけが描かれているのだ。だから、物語に強烈なメッセージ性や方向性がなく、どうしても消化不良な印象を与えてしまう。
 もうひとつの鍵は、あえて謎のままで置き去りにした伏線の数々だ。この映画には、実は謎や伏線が多く、登場人物たちの行動原理も理解しにくいことが多い。それらは、物語の重要な要素であるにもかかわらず、ほとんどすべてが放置され説明がなされていない。これもまた、映画をわかりにくくしている要因だ。
 シュンが命をかけてまで地上を目指したのは何故か、どうしても会いたかった人とは誰なのか。アスナが、父の形見としてアガルタの貴石クラヴィスを持っていたり、いつ戻れるかもわからないアガルタへの旅をあっさりと決意したり、あまつさえ旅を楽しんですらいたのは何故か。シンが、自分でも分からないなにかに突き動かされて、村の掟や与えられた使命、果ては自らの居場所を捨ててまでアスナを救い続けるのは何故か。アガルタのとある種族が、モリサキには目もくれずアスナだけを「穢れ」と称して付け狙うのは何故か。
 これらの謎解きは、じつはそれほど困難なことではない。なぜなら、それらを説明しうる設定は、誰にでもそれと判るように暗示されているからだ。それは、アスナはアガルタ人と地上人との混血児で、シュンとシンとは兄妹の関係だが、シュン以外はそれに気づいていないということだ。しかし、その設定を前面に押し出すと、物語は必然的に一定の方向に収束してしまわざるをえなくなる。その方が物語としてはわかりやすいだろうが、新海誠はあえてそれをしなかったと思われる。わかりにくいというそしりを受けることを覚悟の上で、物語に多様な可能性を残し、その解釈を観客に委ねることで、観客自身がこの物語の意味を考えて欲しいと望んだのではないだろうか。

  o0800045010850252682.jpg   (C)Makoto Shinkai/CMMMY

 さて、蛇足ではあるが、どうしても書いておかないといけないことがある。それは、この映画の様式のことだ。いろんな人が批評で述べているとおり、この映画の様式はスタジオジブリのそれと極めて類似している。新海誠自身が述べていることだが、この様式は日本のアニメーションの王道というべきものであり、それが結実しているのがスタジオジブリの映画だ。今までは、独特の様式が心地良いと感じるコアなファンに支えられてきた新海誠の映画だが、ここにきてその様式を変更してでも、より多くの人に受け入れてもらえるようにしたかったのだろう。
 その目論見は、半分は成功し、半分は失敗したと思われる。この映画の様式は、子どもでも楽しめるほどに敷居が低い。なにも考えず、美麗な映像や情感的な音楽に身を浸しながら、物語を楽しむこともできよう。伝統的なアニメーションの様式が持つパワーを取り込んだという意味では、成功している。しかし、一方では様式という表層のみをスタジオジブリという金字塔と比較され、評価されてしまうという結果も事実として存在する。その意味では、あきらかに失敗だ。映画として「万人受け」する様式をとったがために、本質の理解の妨げになってしまったというのであれば残念というしかない。
 これからこの映画を見ようという人、あるいは、すでに見終わってつまらなかったと思っている人も、心して欲しい。この映画は、スタジオジブリの作品ではなく、新海誠の作品なのだ。そこに描かれているのは、明快な意思や物語性ではなく、喪失に向き合い、迷いながらも生き続ける人間たちの姿なのである。

  o0800109010850253461.jpg   (C)Makoto Shinkai/CMMMY

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